2015年2月9日月曜日

オリジナル金属ゼロへの挑戦 7/

[] 右主翼の製作 5/
[]-11 主脚(降着装置)の1/10図面と部品の製作

 先ず参考にしたディアゴステーニ1/16零戦二一型(金属零戦)の主脚の写真を見て頂きましょう。
 つまり、この様な主脚を1/10 スケールで製作したい訳です。






 引き込み脚機構については市販のユニットを購入して組み合わせる事になるのですが、これを1/10スケールで作ろうと言うわけですから無謀と言えば無謀で全く作れる自信はないのですが、先ずは試し!と作ってみる事にしました。
 実は失敗と試行錯誤の繰り返しの作業で現在に至るも完結しておりませんが2作目でやっと形としてはまあまあかなあ~と言う出来でしたので報告させて頂くことにしました。

 しかし如何せん真鍮を使い過ぎたために重量が重く軽量を考慮した3作目を作らなければならなくなっております。

 海軍航空工廠の図面から



 海軍航空工廠の図から1/10スケールの製作図を作成する。





1/10図面から主脚緩衝支柱の各部品を製作する。

  「部品材料」
     支柱      真鍮  7・8・9・10mmφ 厚さ0.9mm
         アルミ 12mmφ
     車軸受け    真鍮  0.3mm
         アルミ 0.5mm
     オレオ緩衝・他 真鍮  0.3mm
 スプリング
     覆板      アルミ 0.5mm
     車輪      バルサ・ゴムシート
     ホイール    アルミ 25mmφ 厚さ1mm
     車軸(ホイール)真鍮  5mmφ 厚さ0.9mm
     車軸(シャフト)真鍮  3.8mmφ
     マイクロビス
各部材は全て市内のホームセンターにて調達したものを使用しました。


 後に購入しなければならない引き込み脚機構もそうですがゴムタイヤについても残念ながら田舎の善通寺市では調達は出来ませんしインターネット通販での調達は使えないリスクもあるので地元のホームセンターで調達できるバルサ材とゴムシートによる仮製作を行い先ずはホンマに出来るの?と言う懸念を払拭したい。

[]-12 主脚車輪(タイヤとホイール)

 最終的には市販のゴムタイヤによる車輪としたいのですが前述の様に、この地では現物確認しての購入は出来ないのでバルサ材とゴムシートによる仮車輪の製作を行いました。

 等高線よろしく円形に切り抜いたバルサ材を貼り合わせてタイヤ形状に整形する。


 整形するについては極力新円に近づける為にホイール形状の治具を作りドリルによる旋盤効果を期待して製作をおこないました。


 バルサタイヤとアルミホイール
 アルミホイールは実機とは違いますが極力重量低減を考慮しての穴加工をしています。


 バルサを整形して製作したタイヤに両面テープを貼り付けた0.5mmゴムシートを貼り付けます。


 ゴムシートを貼り付けたタイヤとアルミホイールを組み立てる。



 タイヤ製作に使用したゴム用の両面テープとゴムシートの隙間を埋める為に充填剤として靴底の肉盛り補修材を利用しました。


 こうやって仮のタイヤを作ったのですが、これで良いんじゃあないのお~と思う様になって、それに1/10スケールの市販タイヤが有るのかも疑問ですからね。

[]-13 主脚の組立てと主翼への仮収納
全ての部品を組み立ててみました。

 車輪シャフトの真鍮棒ですが適当なサイズの部材がなくやむを得ず市販されているL字の真鍮製フック(木ねじタイプ)のネジ部分をカットして使用しています。



これから先は市販の引き込み脚ユニットとの現合になりますので、ここまでで終了です。

 そうして主翼のタイヤハウスに収納された状態ですが市販の引き込み脚ユニットと巧く現合して機能するのかは引き込み脚の機構ユニットを購入してからの事ですね。


 主翼下面の状態はこの様になりますが覆板の固定と可動確認は全ての主翼リブ補強材を作成し取り付けてからでしょうか。


 先のブログで既に公開していますが改めて動画も添えます。



 海軍航空工廠の零式艦上戦闘機図面集重量表には機体自重量内訳として
車輪32.9kg・1.94%
脚 48.9Kg・2.88%
機体自重量合計が1698.8Kg・100%と表記されていますので主脚としての重量は(車輪+脚)/2=主脚1本の重量と解釈すると40.9Kgとなり1/10スケールですから40900g/1000=40.9g、つまり報告した1/10スケール主脚の重量は56gでしたので約15g(27%)重量を減らして作らなければなりません。
 主脚緩衝支柱を真鍮材料からアルミに変更して再度のトライとなります、つまり作り直し!ですね。

 オリジナル金属ゼロへの挑戦、右主翼の製作 5/ []-13まで公開して参りましが現状ここまでの製作しか出来ておりません、なのでここで一区切りとさせて頂き続きは製作の進捗が進んだ時点での再開とさせて頂きます。
 暫くお休みして次回の趣味ブログは1/1 日曜大工編です。

郷土史家?オジサンの話・乃木希典将軍

 弘法大師(空海)の生誕地として知られる善通寺は四国遍路がTV等でも多く取り上げられる様になって全国的にも知名度があがっているのではないかなあ~と勝手に思っているのです、そんな善通寺の門前町である人口3万3千人ほどの善通寺市については折に触れ先のブログでお話していますが過日、善通寺市の主催で行われた市内に点在する古墳見学会に参加した折、一緒になった郷土史家?のオジサンの話にへえ~!と興味を覚えたものですから受け売りですがブログでお話をする事にしました。
 それは先のブログ「気になっていた第11師団司令部と乃木将軍」の続きとでも言いましょうか、今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰を教育した叔父の玉木文之進が出てきますが、その玉木文之進の跡継ぎとなったのが乃木希典の弟である正誼(まさよし)であり当の乃木希典も玉木文之進から薫陶を受けたと知ったのがきっかけとなって大河ドラマファンとしては、郷土史家?オジサンが言う乃木希典大将と善通寺市との関わりについても忘れないうちに書いておこうと思い立った訳です。
 日本陸軍が第11師団司令部を香川県善通寺町に置くに至った理由の一つに地下水が豊富にあり出水・湧水と言われる清水が多くあったからだと私が会った高齢者の方々は皆さん異口同音に言われます。
 どうも古来より築城の土地選びは水源の豊富さであり近代国家となった明治もその発想に変わりはなかったと言う事でしょうか、そうですよねえ~師団司令部も築城と変わらないですから、その清水ですが善通寺市周辺には80箇所以上とあります。


 壱岐の湧



二頭出水



 我が家も実家も近隣の農家も全て井戸水があり10年ほど前に上下水道が完備されるまでは何処の家も地下水による生活でした。
 どうも善通寺市の上水道の水源もこの清水を利用している様です。


 紹介しました壱岐の湧・二頭出水この二か所はウオーキングコースで見慣れている風景の一つです。
 この様な豊富な地下水の源は先のブログでお話しました「磨り臼山」の奥に写っています大麻山(象頭さん)だと言うのです、そうですねえ~山の標高は616mとそう高くない山ですが雑木の山ですから十分な保水能力があると言うことなのでしょう。

 大麻山(標高616m)象頭山(標高538m)琴平山(標高253m)と磨り臼山



田の水源は湧水・出水ではなく溜池ですがこの界隈は満濃池を水源としています。

日本陸軍はこの豊富な地下水の豊富さに目を付けて第11師団司令部を善通寺町にもってきた、と言うのが地本の通説となっている様です。
 この資料は過日のブログでお話しました乃木会館に掲げられている資料です。


前置きが長くなってしまいました、ここからが郷土史家?オジサンの話として我が家の近所がでてくるものですから、へえ~と、興味深く聞き入ってしまったのでした。
 乃木希典将軍が第11師団長として善通寺町に入ったときに仮住まいを決めなければならないのですが、是非に私の家に!と名乗り出たのが我が家から500m程はなれた所にあった大地主で郷農の○○さんであった。
 その○○さんの家なのですが現在は豪華であったろう、お屋敷も無く巨木になった木々で鬱蒼とした大きな敷地を朽ちた土塀が囲むだけの跡地となって我が家の自室窓からも見えるものですから○○さんの家と聞いただけで、ああ~知っている!と身近に感じ興味をもつに至ったのです。
 その○○さん家に案内された乃木希典将軍は立派な仮住まいとしての居室に驚き、ワシには立派過ぎると言って辞退し一人軍馬に跨ってパカパカと仮住まいを探しに行ったのでした。

 今では鎮守の森みたいになった郷農○○さんの敷地、因みに手前の田圃は女房実家の田圃です。












この写真で言いますと右方向に行くと金刀比羅宮(こんぴらさん)の在る琴平町方面で左方向に行くと善通寺市街から多度津方面になります。
 乃木希典将軍は郷農○○家を辞去して軍馬に跨りパカパカと多度津方向に移動し着いたところが四国八十八箇所霊場の第76番札所、天台寺門宗 金蔵寺でこの寺の客殿を仮住まいとされました。
 そうですねえ~歩いたら1時間ぐらいでしょうか。




金蔵寺の本堂と手前は鐘楼です。





 もう何年前になるのでしょうか以前この寺の境内には乃木将軍の仮住まいがあった事、そして将軍を訪ねてきた女房を会わずに返したと言う逸話が書かれた看板と「乃木将軍、妻返しの松」があったはずと先日その看板と松の写真を撮ろうと行ったのですが無くなっていました。


 石碑には「乃木将軍袖章記」とあって善通寺第11師団長 大野廣一 題額となっていますので後年になって最後の第11師団長(昭和20年・25代)であった大野廣一 中将が題額を自筆で書き内容は乃木将軍が金蔵寺を仮住まいとした経緯を漢文で書いてあるのだろうと、これまた勝手に想像しているのですが、如何せん漢文には造詣がないのでご容赦の程を。



特にオチはないのですが我が終焉の地と決めた善通寺市は住んで早10年になろうとしている第二の故郷ですから、この地に縁のある乃木希典将軍ですが何やらファンになってしまった様です。
 今回の話とは関係ないかもしれませんが護国神社の隣に在る乃木希典将軍を祀った乃木神社を紹介して「さくらじい残日録」2月のブログと致します。
                                   お粗末です。




そうそう昨年末の事だったと思いますが乃木神社の社務所として建てられてあった建屋が原因不明で焼失してしまいました、人も住んでおらず日中も使っていない建屋が焼失するなんて考えられません。
 何故か!不審な事が原因ではないかと考えてしまいます。