2017年4月8日土曜日

株式会社 医理学研究所

洗面所のガラス窓を落としたのは誰だあぁ~寮長まで出頭せよ!!

独身寮の掲示板と言うか黒板にチョークで書かれた文!?んん・・・ひょっとして(*_*;
昭和45年に東京は三鷹市の或るメーカーに入社し独身寮生活を始めたのですが同部屋の友人と街へくり出し酔っぱらって帰った昨晩・・(;゚Д゚)・・俺かも!?

 先のブログでお話した消去できない強烈な記憶として残る、さくらじい若気の至りドジ話ですが、もう一つ先のブログでお話しました「創意無限」

  中島みゆきさんが(^^♪風の中のスバルㇽ~と歌うメロディーが頭を過りますがプロジェクトX 挑戦者たちの本にはこの様に紹介されています。

 中島は墨をすり、1枚の書を書いた。
 創意無限
 中島は言った。
 創意の実現には、無限の努力が必要です。諦めずにやりましょう・・・

 そんな中島 茂さんの記憶がマタマタさくらじいの頭を過ったものですから、お話をさせて頂く事にしました。

 さくらじいが入社した1970年は3代目の持田信男さんが社長をされていましたが翌年の1971年~1977年は中島 茂さんが社長でおられましたので丁度さくらじいが松山で営業していた時期とギリギリ重なるのです。

 そんな時期でしたのでしょうかお得意様であった開業医さんの開院祝いに来られた社長を社有車でご案内した時に“戦時中だけど会社でマグネトロンと言うマイクロ波管を使った殺人光線の開発研究をやっていて三鷹工場の敷地に置かれた戦闘機にマイクロ波を照射する実験をしていたんだよ!?と言うお話をされ、その時はそうなんですか!?と聞くだけでした。

それから10数年が過ぎてそんな事があったのも忘れていた日に偶々読んだ単行本に中島 茂の名前が出てきて何と言いますか・・その時の殺人光線開発の話と重なって一気に読み進めたのを思い出したのです。

その単行本はノンフィクション作家 中川靖造さんの「日本のレーダー開発と伊藤庸二大佐」と言う本で抜粋を紹介しますと。

電波によって遠方の物体を探知しようという着想は、1920年代、世界の著名な科学者の間で話題になっていた研究課題である。

 その中の一人に日本の若い技術者がいた。

 海軍技術研究所に着任して間もない伊藤庸二造兵大尉であった。

 ・・・・伊藤は高出力で波長の短い電波を発射できる真空管をつくりさえすれば、必ずものになると確信していた。

 自主研究ではじめた極振管(マグネトロン)の研究を急いだのもそのためである。
 一方、民間でも、マイクロ波(極超短波)用の真空管開発に執念を燃やしている技術者がいた。

 日本無線の中島茂(昭和6年 早稲田大学理工学部電気科卒)技師がその人だ。
 中島は伊藤の実弟でもあった。

 伊藤庸二は東京帝国大学工学部電気科卒業、海軍技術(造兵)中尉に任官したのは大正13年4月であった。

 この様な内容の単行本でしたが・・・興味がある方はノンフィクションライター 中川靖造さんが執筆されている「日本のレーダー開発と伊藤庸二大佐」を読んで頂ければと思います。

 このマグネトロンですが我々の身近なところでは電子レンジで使用されているのを御存じでしょうか。

勿論、原理は同じでしょうけれども当時の物とは仕様性能は全く別物と思いますけどね。

丁度、さくらじいが入社した頃にマグネトロンを使った商品があったのです。

さくらじいが入社した株式会社 医理学研究所は1950年(昭和25年)に資本金100万円(日本無線㈱半額出資)で会社設立登記を完了した会社ですが社史「光明を求めて」では『医界が要求する,否、それ以上の高級有益な医理学器械を考案発明し、研究の進歩と睨み合わせ製造能力を漸増していく』ことを創業の精神として掲げた・・とあります。

さくらじいが入社した当時はマグネトロンを使った極超短波温熱治療器がマイクロテラピーと言う商品名で製造販売され三鷹の工場で生産されていた様子が記憶に蘇ってきます。

 又、その頃はエコーカメラと言う商品名で超音波診断装置と言う音波を利用して人体の断層写真を得る医療器械も製造販売されていて、その開発秘話がNHKのプロジェクトXで紹介された挑戦者たち「創意無限」と言う訳です。

 残念ながらさくらじいが入社して配属された部門はマイクロテラピーやエコーカメラではなく放射能(線)測定装置・核医学診断器機の部門でした。

 69歳になったさくらじいの半生を過ごした「株式会社 医理学研究所・1976年に社名をアロカ株式会社に変更」なので突然フラッシュバックと言うか時系列に関係なく良い事、悪い事・・悪い事が多いかなあ~頭の中に蘇ってくるものですから、今後も思い出したら書こうかな・・何て思っています。


 大丈夫ですよ・・( ^ω^)・・・書くのは他愛のない話だけですから。

 4代目社長、中島 茂さんが書かれた社是、確かに、さくらじいが定年になった2012年には誰もが疑う事のない「世界のアロカ」になっていました。
 
 中島 (なかじま しげる、1907年〈明治40年〉 - 2006年〈平成18年〉)

 最近とみに思うのですよ・・「諸行無常」・・てね。

1 件のコメント:

  1. 偶然ヒットして読みました。またお会いできる日あれば光栄です。営業一番弟子より。

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